志村けんとドリフの運命的な出会い!【金スマ】




今日の金スマでは志村けんと

ドリフターズの運命的な出会いを紹介しています。

令和だよ!全員集合!ですね。

高校生の時、ビートルズが来日ライブをした時に

友達のチケットを無理やり譲ってもらい

ライブに行った志村けんさん。

前座をしていたのがドリフターズ。

しかし、志村けんがライブに行ったのは

ドリフターズの前座した翌日だったそうです。

志村けんさんは

「ドリフターズの回を見たほうが、

面白いんだけど、実は違う。。」

と言います。

当時ドリフへの思いは全くなかったという。

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それは志村けんさんが高校生、進路を決める頃。

志村けんさんの兄は大学進学し、東村山市の

市役所職員になった。

そんな兄のようになるよう勧められたが

お笑い芸人になると決めていたという。

志村けんにとって問題は

誰の弟子に着くか。

大好きな音楽と笑い。

その2つを兼ね備えたドリフターズへの

弟子入りすることに決めました。

当時はまだ雑誌の付録に

芸能人の住所が載っていました。

いかりや長介の自宅にアポなし訪問。

高校3年の2月のことでした。

家を訪問すると、奥様が出て

「人は足りているみたいだから

諦めたほうがいいですよ」

と言われました。

しかし「こんなので諦めてたら

コメディアンなんて絶対無理だ」

と思って、待っていた志村けんさん。

寒い雪の中12時間待ち続け、

限界を迎えそうになった時に

ようやくいかりや長介が帰ってきたそうです。

改めて志村けんさんは、いかりや長介の自宅を

訪問します。

志村は、いかりや長介の迫力に押され、

その時は話すので精一杯だった。

「ドリフターズに弟子入りさせてください。」

それに対していかりや長介はこう答えました。

「一人辞めそうな奴がいるから、辞めたら連絡する」

と言われました。

一週間後に、連絡がきて「後楽園ホールへ来い!」

と言われて、東村山市から出かけて行きました。

高校卒業まで2ヶ月の時のことでした。

いかりや長介は「明日から来い!」

と言います。

しかし、志村けんさんが気になったのは、

当時50歳の父のことです。

若いながら、すでに会話もままならず徘徊を

するようになった父の面倒を家族に押し付けて

東京に行ってもいいものか。

母が背中を押してくれて、ドリフターズの付き人として

テレビの世界に行ったのです。

父憲司から名前をとって、芸名を志村けんとしました。

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ドリフターズの付き人は、

志村けんさんを含め3人です。

メンバーの着替えを担当したり、

弁当の用意など、様々な身の回りの世話をしていた。

早朝から深夜までドリフメンバーの

お世話に追われる日々です。

中でも大変だったのは寝台列車での移動。

音楽楽器をのせるのが大変だった。

ベッドに寝ようとするとギターが

置いてあったのです。

志村さんが「オレのベッドは?」と聞くと

先輩から「寝るつもりか?

楽器が取られないように見張ってろ!」

と言われたそうです。

19歳の志村けんは

「今に見てろ!」と車窓に書いた。

そして8時ダヨ!全員集合が始まった。

番組を見て勉強を重ねました。

22歳のとき、マックボンボンというコンビを

結成し実力もあって1年余りで人気になって

い来ました。

そんな中、母から電話がかかってきました。

母「父さんがたった今・・・」

まだ54歳という若さでの訃報だった。

すぐに病院に向かった志村けんさんでした。

顔に布がかけられていました。

お父さんの顔を見るよう促されましたが、

動揺しないよう、お父さんの顔を見ずに、

仕事に戻って行きました。

平然を装い、本番のステージに向かった

志村けんさん。

お笑いという、厳しい世界で生き抜くことの

覚悟をしていたのです。

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志村けんさんにとって、晴天の霹靂だったのが

ドリフのメンバーの荒井注さんの脱退です。

ドリフのメンバーに入るということは

一切想像していなかった志村けんさん。

「全員ぼくの師匠ですからね。言ってみれば。

中に入って何ができるのかなっていう」

と当時の心境を振り返りました。

荒井注さんは、体力の限界を迎え、

脱退を決めたのです。

1974年3月、24歳の志村けんさんは

新メンバーとして「8時ダヨ!全員集合」に出ました。

当時は、「見習い志村けん」と呼ばれ、

3ヶ月は見習い扱いだった。

「それでダメだったらダメかもしれないじゃないですか」

という気持ちだった志村けん。

視聴率50パーセントの番組に突如出てきた志村けんさんに

お茶の間の視聴者は「誰だ?志村けんって」

と皆思っていたのです。

当時の映像を見てみましょう。

コントで、駅員のメンバーに怒鳴りつけるのは

駅長の志村けん。

客席の笑い声はなかったのです。

志村けんさんは

「一生懸命すぎて空回りしていた。」

と話しました。

当時、志村けんさんを応援してくれていたのは

実家の母だけだった。

心配する母をよそに、志村けんは

プレッシャーに押しつぶされ、

自分のことだけで精一杯だったのだそう。

当時の様子をいかりや長介の息子が見ていました。

いかりや長介の息子は、

「反省会じゃないですけれども、番組の振り返りを

していた」と当時のことを振り返って話しました。

見習いのうちは深夜遅くまで

いかりや長介さんの家で、

いかりや長介さんと志村けんさんで

話し合っていたという。

いかりや長介さんの息子コウイチさんが

部屋を覗くと、志村けんさんが熱心にピアノを

練習していたという。

荒井注さんがピアノの担当をしていたので

ピアノの練習も熱心にしていたという。

そんな中、訪れた危機。

裏番組で、「欽ちゃんのドンとやってみよう」

という番組が開始し、人気に。

荒井注さんが抜けたドリフターズのコントの

質は落ち、飽きられ始めていた。

そんな時に、ドリフターズで、部屋で将棋をし始めた。

「東村ー山ー!一丁目。良いところ!」と何気なく歌うと、

「それを舞台でやってみろ!」と言われました。

そこで、歌うと、大人気になりました。

「東村ー山ー!一丁目。良いところ!」

が、子供たちにも大ブームになったのです。

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